昨日新たな情報を仕入れてきました~^^

昨日はいつもの山荒らし友と暇つぶししてきたことを書きました~^^


http://blogs.yahoo.co.jp/ganganikuze007/40404234.html


この中で、200円払わせられたが新たな情報を仕入れてきたことを書いていた~^^


今日はその仕入れてきた情報を書いてみます~^^


僕は少し前にこんなことを書いています~^^


http://blogs.yahoo.co.jp/ganganikuze007/40377921.html


ここに出てくる二岐温泉の大丸あすなろ荘は、昔フライフィッシングに狂ってた頃に夕方釣りを終えてから温泉に入らせてもらってた秘湯旅館なんですが~、その時はこの旅館にこんな面白い話があるとは思ってもいなかった~^^;


この二岐温泉は今でこそ道路が整備され簡単に行けるようになりましたが~、その当時はまだ道路が砂利道でクネクネと曲がっていて~、温泉に行くには結構大変だったんですよね~^^;


紹介したサイトに非常に興味深いことが書かれてるのでぜひ読んでみてください~^^


その中から一部を引用させていただきます~↓↓↓





新しく旅館を
建てようとして古い家を取り壊したところ、この旧家には“開かずの間”
というまったく入口のない部屋があって、この中から大量のホツマ文字で
書かれた古文書が出てきた。この文書は、現在宮内庁に運ばれて保管され
ており、そのマイクロフィルムが富士銀行の地下金庫に預けられていて、
宮内庁とSさんの双方で持っている鍵がなければ開けられないという




S家がどんな家かについては、そんなに古いことはわからないのです。し
かし木地挽きとしての歴史はわりあいはっきりしています。約千三百年前
近江の国から木地挽きとしてこの地に移ってきました。その頃の墓もあり
ます。
あれが発見された家は何時建てたのか、はっきりしませんが、鎌倉時代
のことと思われます。近隣の人々が総出で二岐山に生えていたアスナロ
伐って建てたもので、柱の太さも30センチくらいありました。この天栄
村周辺の土地は戦前まで全部うちのものだったのです。戦後の土地開放で
これらの財産は無くなり、国債だけがトランク一杯にあるのを見ましたが、
現金収入はほとんどありませんでした。しかし、父は私達兄弟全部を最高
学府までやらせました。一体どこにそんな金があるのか、父にきいたこと
があるのですが、話してはくれませんでした。その外のことでも不思議な
家だなと思っていました。
あの家は国の文化財の指定になっていたのですが、家の背後の崖が崩れ、
後ろの建物が壊れてしまったのです。それで修理するかどうか検討したら、
修理するには当時で三千万円もかかるということで、文化財の仮指定を解
き、取り壊すことに決まりました。
解体のときには、宮内庁文化庁の係官が立ち会っていました。この家
の三階には“開かずの間”というのがあることは、前から知られていて、
これまでにも某工業大学でファイバースコープを使って中を調べようとし
たことがあるんです。ところが、この部屋は厚さが10センチもある部厚
い板に溝を刻って組み合わせてあり、建物を壊さないかぎり中を見ること
はできませんでした。
この建物の取り壊しには、この近隣の人たちが大勢かり出されていたの
ですが、解体が始まり茅葺きの屋根が取り払われ、この部屋の中のものを
見た途端、宮内庁の係官から工事中止が申し渡されたのです。これから先
宮内庁直属の者で工事をやるということで、地元の人たちはこの解体工
事から外されてしまいました。
なお、この作業には京都大学で主に古文書を研究している某教授や奈良
女子大学の考古学専門の某教授なども参加していました。
この開かずの間から出てきた文書は漆塗りの大きな櫃に47個もあり、
雨漏りのため3個は腐っていましたが、中は大丈夫でした。この中の文書
はほとんど桐のうすい柾板のようなものに書かれていました。文字は間違
いなくホツマ文字です。一部漢字で書かれたもの、紙に書かれたものもあ
りましたが、紙はボロボロでした。家は一切釘を使わず、屋根は科の木の
皮をなめして作った科綱で組まれており、これは本当に丈夫なもので、ま
ったく痛んでいませんでした。あるいはこの木の皮をなめして板状にした
ものに字を書いたのかもしれません。
この発見された文書は宮内庁に運び込まれたのです。そのマイクロフィ
ルムが撮られて富士銀行の地下金庫に保管されているのですが、この金庫
宮内庁と私の方で持っている二つの鍵がなければ開けることができませ
ん。銀行に保管されて以来、まだ一度も私は見ておりません。マイクロフ
ィルムの長さは4000メートルあります。実は私の兄もこの文書と一緒
宮内庁に入ってしまったのです。兄に尋ねても、お前は関係ないんだか
らといって詳しいことは何も話してくれません。また、担当の元東大教授
の式部官某氏も、いずれ時が来たら発表するからといって教えてくれません。
この建物が取り壊された後は、旅館をやめるつもりだったのですが、私
が引き継いでやることになりました。取り壊しの後、高松の宮殿下が訪ね
てこられ、「A荘」という今の名も殿下の命名です。
建物に使った大きな木の矢羽根にはホツマ文字が書かれてありました。
また漢字で年号が入っていて、それは約480年前のものでしたが、これ
は修理のとき書いたと思われますので、最初建てられたのはもっと古いと
思います。」





平家の落人が隠れ住んでいたとも伝えられていたこの二岐地区では、人
目につきやすい祭の幟や煙の出る狼煙、時を告げる鶏の飼育は禁じられて
いて、今でも二岐地区には祭がないという。二岐温泉から、さらに四粁ほ
ど登った二岐山の中腹に巨大な戦陣用の鍋が祀られている御鍋神社がある。
この神社は平将門の乱の折、その残党が戦いに敗れてこの地に逃れきて、
再起を図ってこの鍋を祀ったといわれている。平将門とSさんのご先祖、そ
してホツマ文書を直接結びつけるような史実は見当たらない。しかし、平
将門の一門が、この地に逃れ隠れたのは事実と思われるので、これにはSさ
んのご先祖の手引きがあってのことと考えられる。






以上が引用させてもらった箇所です~^^


僕は何度か羽鳥高原にある板小屋遺跡について書いたことがある~^^


http://blogs.yahoo.co.jp/ganganikuze007/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C8%C4%BE%AE%B2%B0%B0%E4%C0%D7&sk=1


この板小屋遺跡は木地師がこの地に住んでた時の遺跡なんですが~、二岐温泉周辺も同じだったみたいですね~^^


この2箇所の他に更目木(ざらめき)という地区も天栄村にあるのですが~、ここも同じように木地師が入ってきた地区だったそうです~^^



この3地区が見れる地図はこれです~↓↓↓


https://maps.google.co.jp/maps?q=%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C&hl=ja&ie=UTF8&ll=37.266403,140.016804&spn=0.09194,0.181789&sll=34.728949,138.455511&sspn=47.79238,93.076172&brcurrent=3,0x60201c59b9417731:0xef6c1c6f1c97f325,1&brv=25.1-fa8ed276_c3147e72_ccf32e81_040c821b_76b35545&t=h&hnear=%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C&z=13


二岐温泉~↓


https://maps.google.co.jp/maps?q=%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C&hl=ja&ie=UTF8&ll=37.24212,139.988957&spn=0.002874,0.005681&sll=34.728949,138.455511&sspn=47.79238,93.076172&brcurrent=3,0x601ff66024eeb977:0xac468a2147c03834,1&brv=25.1-fa8ed276_c3147e72_ccf32e81_040c821b_76b35545&t=h&hnear=%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C&z=18



板小屋遺跡はだいたいここらの地図の真ん中あたり~↓


https://maps.google.co.jp/maps?q=%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C&hl=ja&ie=UTF8&ll=37.232003,140.03118&spn=0.011498,0.022724&sll=34.728949,138.455511&sspn=47.79238,93.076172&brcurrent=3,0x60201c59b9417731:0xef6c1c6f1c97f325,1&brv=25.1-fa8ed276_c3147e72_ccf32e81_040c821b_76b35545&t=h&hnear=%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C&z=16


更目木はここ~↓


https://maps.google.co.jp/maps?q=%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C&hl=ja&ie=UTF8&ll=37.295274,140.067873&spn=0.011488,0.022724&sll=34.728949,138.455511&sspn=47.79238,93.076172&brcurrent=3,0x60201c59b9417731:0xef6c1c6f1c97f325,1&brv=25.1-fa8ed276_c3147e72_ccf32e81_040c821b_76b35545&t=h&hnear=%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C&z=16


要するに~、どの地区も山の奥深い場所だってことです~^^


そこで~、ここで仕入れてきた情報を~^^


平安時代だったと思うが~、この木地師たちが今の滋賀県からこの地に入ってきたようなのです~^^


近江の国からですね~^^


そしてですね~、この木地師たちは地元の農民とは一切付き合いがなかったそうですよ~^^;



ってことはですよ~、地元の住民との縁組なんてのももちろん無かったわけで~、ある意味血を守っていたのかもしれませんね~???


これはマヨさんの御種理論で学んでたので~、ニヤニヤしてしまいました~^^


前に板小屋遺跡について書いた時には書いてなかったかもしれませんが~、16の菊花紋章の墓石もあるそうですよ~^^



もっとも、この板小屋遺跡は寛永2年(1625)に蒲生氏郷と共に会津入りした近江(今の滋賀県)の木地師の集団が住んでいた集落跡らしいのですが、二岐温泉周辺の木地師達は相当古いらしいですから~、板小屋遺跡の木地師達も、もしかするともっと古くから居たのかもしれませんね~^^


しかも16の菊花紋章の墓石もあるぐらいですから~、天皇家と何か関係があった人かもしれませんね~^^


やはりそれなりの意味があってこの地に来たんだと思いますよ~^^


周りの農民との付き合いがなかったのも~、そこらに意味があるんではないでしょうか~?????


今の村の名前も天が栄える村ってことかもしれませんしね~、天栄村ですから~^^


いや~~~、何気なく寄ってみた施設で聞きたい情報が聞けずに~、違う新たな情報を仕入れてきたわけですが~、いろいろと繋がっていくので楽しいですわ~^^



最後に~、大丸あすなろ荘はこれです~↓↓↓


http://www.daimaruasunarosou.com/



このサイトの歴史の中に出てくる家の写真がこれみたいですね~↓↓↓



イメージ 1



階って書いてあったから~、屋根裏部屋ってことですかね~開かずの間は~^^



しかし、面白い話ですよね~^^