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『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その1

三つ子の魂は百まで」というが、学校で教った歴史は、ジソムスイセイ(神武・綏靖)と暗記ものだったゆえ私でさえ、いまだに頭の中にひっ掛っている。どうしても先人感は強いものである。そこへもってきての、前人未踏の八切史観では、とまどわれるかもと知れぬと案じ、順をおって判りやすく解明してゆく為、前もって予告編みたいにアウトラインを古代史入門の一般的手引きにしておく。
 前書きをしてはやや重複をすこしするが、いきなり、ぶっつけに入ってゆくよりは読みやすい。それに、どうしても古代史に入ってゆくにはタブー視の部落史とは切っても切れぬ問題がある。
 なにしろ西暦六六三年に郭務悰が進駐してきて藤原鎌足と、日本名になり唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の古代史研究」に詳しいが、天孫と称したカクさんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賤にされた。二大別とされた賤とは太平洋沿岸に漂着の八のもの。
 次に裏日本から親潮寒流で能登や新潟へ入ってきたのが、獣の四つ足から、四つとよばれる。源・平・藤・橘と四大分するが、藤は唐でカクさんの一万二千のグループ。橘は、その唐を中国大陸で滅ぼし取って変った契丹系ゆえ、大陸人でもトウでナイゆえ、豪(えら)くみられず彼差別とされる。
 彼らは天神信仰だが、源は元ゆえ白山さま信仰。平は今の。ヘルシアと同じで赤旗をふり祇園、八坂信仰で、宮島も紅殻の赤塗りである。藤は墨染の衣をきた坊主が宣教師で先にきたので、「黒住教」さえ残っていて、藤は唐で黒色。しかし四つの姓別は、最底四種以上の複合民族をさすが、勝てば官軍・負ければ賊で賤、黒の他は、次々と体制の変るたび限定居付部落へと追いこみ。
 部将軍に滅ぼされたものの、ナラ王朝と栄え桓武帝より良となったクダラ系は黄色である。しかしエタ非人と一につしたり、また分類し、エツタ島など海軍にそっくり召し上げられると、「江田島」と恰好良くなるのは、そうしたゲツトーヘ次々と敗戦捕虜が入れられ、混同している為だが、四大別ではなく、太古日本人はエ・ケ・セ・テ・ネが姓の上につく処の「雑色」の人々だろう。
「皮剥ぎも皮細工も四つと呼ばれる騎馬民族。判りやすく言えば白筋の馬方は源氏だが、篭かき川越人足や雲助は平家で八つとよぶ赤筋の拝火宗徒。トウナイは唐無いで契丹系の部落民」と、はっきり種族別が分けられる。喜田貞吉は他国の捕虜とか社会の落伍者ときめつけるが、藤原王朝時代に征伐された日本列島原住民。足利時代は散所奉行が新設されて、南朝に味方した者らの反体制子孫を収容。これは「庶民日本史辞典」「野史辞典」「日本部落史料」で明白にされている。
戦国時代の始めの応仁の乱に、部落の者は山狩りで集められてきて足軽とよばれ楯の代りに、しっ払っさせられ、生き残これたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平になると下こく上(下剋上)は明治維新までのびた。が五代徳川綱吉が韓国済州島系で神仏混合令の法令を下し反仏派の原住民は宗門改めの寺社奉行によって、浄土(上等)でない汚れた下等人だと差別され圧迫された。
太田亮の「姓氏辞典」では加賀に入った藤原氏と美化しているが、仏教は一向宗が入っただけ。
 ナポレオソが勲章を発明するまで「賜姓」といって、藤原姓をエゾや反乱軍の純友にも与えた。
 つまり実際、産所は足利幕府散所奉行で、反体制だった南朝方子孫を捕え収容したのが、同じ呼び方ゆえ産所と間違えられて伝わる。山所ともなり山椒太夫山椒魚ともなる。彼差別の習慣が広まってしまった為でもあるが、喜田貞吉説も産所と文字通りにとって誤っている。
 なにしろ唐語のブシソ(不信)つまり信用できぬ輩とし召使われ、それが武力をもってついに公家を押さえつけ、公家対地下といったのが実力で逆転。下こく上の時代と呼ばれたのが文治革命であったり、戦国時代以降となると、かつては非人とか八部とよばれた蜂須賀小六も阿波の大名となる。傭兵が武力でクーデターを起し主権を奪ったのである。関白の一条兼良は足利末期の藤原系で仏派ゆえ、寺を荒す彼らを悪党と呼んでいる。さて、藤原王朝は天孫民族なりというが、どうもこれは妄説である。
藤原基経廃帝にされた陽成さまの一族一門が山へ逃げこみ木地師となって山がつになりたまいし事実もあるが、高貴の出で良であると証明したくて、自分らを放遂した藤の姓を勿体ぶって付けている。それゆえ、モの姓を本物と思われてしまい誤られている。


『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その2

 日本には正しい歴史なんかないのだからと、他国のごとき歴史学博士の称号は不可と明治二八年の博士号設定の時リースに言われたごとく、恰好よく美化されているだけで、何も判っていない。部落とは騎馬民族が日本列島へ渡来時に古代海人族を収容し、藤原時代には良でない人口九割の賤の民をとじこめ、反仏派の北条期には源氏の四つを始め赤系でない者を追いこんだ。
 足利幕府になると今度は逆で、赤系の祗の八つも反体制の南朝方と、橋のない川へ入れられたのが実際の処で、喜田博士は日本部落史研究の第一人者とされているが、何も全然ご存じない。
 まだアイマイモコの喜田史観の間違いだらけよりも、明石書店刊高柳金芳の「江戸時代被差別分層の生活史」の方が正確である。そこから逆にさかのぼってゆけば、九対一ぐらいの割合だった征服者と被征服者の悲劇。つまり吾々の先祖の虐げられてきた真相が判りうるといえる。
 「良いことを言われると、ひとは悪い気がしない」という人情のキビを巧く利用して、なんでも美化してしまい、敗戦民族を「国津神」などとしてしまうからして、それを文字通りで読まされては、喜田先生でも訳けが判らなくなる。仕方がないというか、まあ当り前みたいになっている。
 さて拝火宗で「祗」とよばれる「八つ」は、西南渡来系の日本原住民だし、「四つ」は騎馬民族で東北沿海州から日本海親潮で流されてきた北方民族であるが、治安維持のため徳川時代には施政方針を「四つ」と「八つ」を交互にくりこんで互いに牽制しあわせて被差別。藤ナイは10世紀流入契丹系をさす。契丹は唐を滅ぼし取って換った国ゆえ大陸系でも御所からは賎民視されていたのである。だが、太平洋側に黒潮で這い上った「八つ」は八母音の原住民で農耕漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされた。が、「四つ」は沿海州北鮮系で遊牧民族ゆえ、討伐されて捕えられる餌戸。
 石岡の部落にしても、夷岡とよばれショウモンと蔑まれ区別されていたというが契丹系で、天慶の乱とされた時の者らの押しこみ限定地。だが「エの戸、つまり江戸」の以北はみな部落ゆえ、一緒くたにされて被差別され、すこしでも反抗すれば徹底的にこらしめて、オカミの言いなりになる奴隷人民に仕立てしまった。だから藤原王朝の鉄武器による権力はえらいものであった。
「その筋の御達しにより喫煙は」と今も映画館にでている。消防とか警察といった危険を伴う仕事は「千金の子は盗賎に死せず」とか「良い人は兵にならぬ」といった唐の教え通り藤原氏が日本へきても農耕をせぬ洞戸奴隷に施行。なお足利時代に散所奉行が旧南朝方の子孫を部落の散所民にしたのが知られていないから、私の「特殊部落発生史」に順に詳しく書いておいた。
 千の宗易こと俗にいう利休の自決後、その木像を八付にかけた後その一味のササラ衆を部落に追いこんだのが茶せん(茶筅)部落で、華やかな茶の湯とは裏はら。また昔はハングリースポーツ興行だった角力はオドマ勧進の、勧進元で取締っては八百長で儲けていた。儲けるといえば、一番新しい宗派では、既存のダンナなどないからして、一向宗は部落に目をつけた。悪人でも念仏を唱えれば善人に生れ変る。部落民でも、信心すれば次は常人に生れてくるのだと、真言宗本願寺説教憎が信徒にして廻ったので寺人別の数は増えた。だが、彼らの殆どはあくまで反仏であった。
 僧へ絶対に近かよらなかった原住民の全体は、この百倍以上が、実際はいた。今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利鞘をとって売りつけていた名残りである。


『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その3

 さて大正八年秋に25銭(現在なら五百円)にて出された一号は、最後の六頁が発禁となったと喜田先生は最後だけ削除し、奥付を大正九年一月一日にして四倍に値上刊行し、第六版から二二版まで世に送りだしたのは、金あつめのための作為なのかとも感じられる。なにしろ喜田貞吉博士はモの大正八年には南北朝両統問題でりース直系の三上参次らに睨まれ国定教科書編県官を追われ、やむなく自費で、「民族と歴史」の第一号を出した時の事だから、どうも資金繰りで、発禁も値上げ操作のために、オカミに発禁にして貰った裏取引とも考えられる。日本では歴史屋は真実追及よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向があるみたいゆえである。
 部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ彼差別されて地域的だった。全国的に「解放」の美名で広めたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」。それと、この「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すえの「橋のない川」である。
 せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを、本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人を」作ってきたのである。
「天の古代史研究」の本さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄則部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して、奴隷にして被差別した歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。
 が売れて広まったこれらの本のため大正14年12月13日の世良田事件となった。上州新田郷世良田の庄徳川に残っていた23戸の部落へ、近在の三千八百人が押しよせ、村田銃をうちかけ火をつけて、乱入し片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し徳川の部落は大騒動となった。
 というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名をとった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝された土地。特殊部落とはいえ長史岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンヘいっていた。だが当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康とは松平元康の改名せしなり」という故、山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布。(『松平記』として日本シェル出版四八〇〇円)そこで周辺近郊の者らが、世良田の徳川には、これまで冥が米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地許の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。
 そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集ってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。
 しかし当時の学士会は、華族会の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれの華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理をたて、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、さかのぼった奥付年月にした『松平記』を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。


『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その4

 なにしろ、彼ら明治史学家の人々は、みな口を揃えて、「明治史学は南朝方の顕彰にある」と称したが、長座天皇を明白にした事と楠木正茂の銅像をたてたくらいで、足利時代にできた散所奉行によって足利創業の叛徒として特殊部落へ収容された南朝の末孫は、その健で解明できずだった。脇星・湯浅・楠・新田の地名が特殊部落にどこも多い。
 さて明治までに刊行されたのは足利時代の「夷詠朗詠果」から始まって「くぐつ記」遊行衆説教師遠の「鉢屋由来記」から「賤者考」「見た京物語」「京四条極楽院空也堂文書」「菅茶山備後史料」「塩尻百巻」そして明治以降となると「日本奴隷史」に私の「野史辞典」「庶民日本史辞典」菊池山哉の「賤とされし先住民族……日本部落史料」「長吏部落↓日本の特殊別部落」だけが主らしい。
 しかし国定教科書編集員だった喜田員吉だけが学界では評価され、部落者の者としては二十歳前後の若さで柳瀬勁介が書き残した処の「特殊部落一千年史」や「エタ及ビ非人・社会外の人」明治時代までは、口伝えに残こっていたでユーカラの殆どを書かせ、その中で皇道史観に合致する者だけを己が名で発表しアイヌ研究の権威となった金田一京助に対し、アイヌの遺産を返すよう、モの伜の金田一春彦に何度も求めたのが、新泉社よりユーカラの残りを訳し三部作を出しているボン・フチである。初め東大出の教授の肩書の喜田を信用し、研究を発表してやると甘言でもそそのかされ、三脚カメラを担ぎ日本全国の特殊部落研究をした菊他山哉は、いくら草稿や写真を送っても自分の名は、まったく出してくれぬからと、東京史読会を作ったのである。
 さて「日本部落史料」の中に掲出してあるが昔の荒川三河島は、川の中州の特殊部落地で戦国時代の村山七党の流れをくむ武蔵党がいた。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康は彼らを新規にみな召抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。〈野史辞典〉に三河の旗本は二名とはもれゆえである。今は一向一揆とされているが、三河人は他所者の、世良田の二郎三郎こと家康を入れまいと国申で迎え討ち、駿河や三重、浜松や渥美らの家康軍と戦った時、このとき裏切って味方したのは彼ら二人で恩賞の為である。他の三河人は商人になったから、「三河星いなりに犬のくそ」とまでいわれる。岡崎城も御三家どころか僅か五万石の水野の城。渥美半島出の大久保彦左が書いたものとは思えぬ「三河物語」や、贋系図作りの沢田源内の、「後三河風土記」が広まったのも三河島旗本が生国尾張三河系図をみな作らせるのが流行したのに合わされた。だから今も誤られている。さて部落出身者は立身すると同じ出の者を忌み嫌う。
旗本になった連中は後から採用され30人扶持程度の奉行所同心や材木座火盗同心の連中へ、「不浄役人め」とか「溝さらえ」と、はっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や太製陶会社では、興信所を使い部落出身者の就職差別し不採用にする。明治新政府が徳川家へ、「汝その祖宗の地へ戻るべし」と駿河七〇万石へ移封したのは、家康が徳川の出だが浜松の七変化部落に売られてきて育ったのを、薩長では知っていたからである。そこで勝海舟ら旧幕臣が、「人の一生は重荷を背負って……」といった家康遺訓を作っては各社寺へ奉納し、家康神話を作りあげ、徳川家連を公爵にして華族会長にまでした。それを尾張徳川家で、旧幕臣松田の贋作と暴露。尾張は宗春の時に、松平蔵人元康と権現さまは別人で両者が戦った古戦場が、石が瀬その他に現存すると、章善院目録の中に発表。宗春は素行不良とされ閉門後殺され家康の血統は断絶。その後は、徳川吉宗の孫の田安や一橋から交互に、尾張藩主に入っていたのへの怨みであろう。


『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その5
 彼ら歴史家は、崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の、「八つ」との区別もできず、10世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って換った契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であらうと指が八本との妄説までたてる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話をかいているのに喜田貞吉らは気づかず「特別部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。
 三韓征伐はまったく逆で馬韓弁韓辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦六六三年に世変りした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送りこみ徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのが、ゲットーの居付き部落と知らぬらしい。
 続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ尽きると自滅させた。『日本後記』や『続日本記』に記録されている。
 八つはマレーシア経由の黒潮渡来族ゆえ、農耕漁業製塩をなし食糧増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王に率いられ、中大兄の韓国系に食糧確保の政策上から子をうまされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが終りには岡山のゲットーヘ収容、奴可耶の地名を今も残す。
 四つは崇神御孫景行帝が八つの八坂姫にうませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。
 彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山ガツ餌取り餌差しとされ、特殊部落民とされてゆく。
 恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。が11世紀は青眼の賊舶が次々と来襲、山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛むかぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語でイと呼ぶから「刀イ(伊)」の乱。この時、頼光四天王として坂田金時らも現われるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ従五位下止りで昇殿は不許。
 ようやく文治革命で夷津の夷頭の北条政子の世になると京を征伐し尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変りして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に足利創業に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。


『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その6

「天の古代史」「庶民日本史辞典」「野史辞典」の三冊をぜひとも順に読んで散所を産所と誤らぬ為にも真相を把握してほしい。またイザナギイザナミニ神が天の浮橋で互いに見染められたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、エ民の多い処をエ多とよぶのも語源。また騎馬民族蘇我の末裔が「吾こモミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の源氏である。先住民族のセソ
を千に換えて「千軒」と、ゲットーだった地域の押しこめ居付地を呼ぶのとこれまた同じである。
 俗にいう処の非人とは騎馬民族の末孫。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる八つの民が働くのに、彼ら四つの遊牧民族は違うからとの合名で藤原体制に、北方に追われキタともいう。
「ヤジ・ウマ」と庶民をよぶのは、八つと四つを合せた呼称だが、山野に昔から自生の草木や土や石をきりだしたり人や獣を扱うのが原注系の限定職種。それを加工するのが良の舶来職だった。
「除地」として大名領でも天領でも年貢なしだったのが、明治新政府が収獲物にのみ対しではなく土地を私有化し地租課税。よって河原や山頂を当てがわれた部落は納税の為に貧窮化した。
八母音を使う名古屋弁のような太平洋岸から日本列島に這い上って住みついたのが「八つの民」。
 今もイラソのヤスドに祀られている天地水火を拝む祭壇があるゆえ、ヤー公とかヤジとよぶ。
 裏日本ヘベーリングの寒流で入ってきたのが騎馬民族で四つとよぶゆえ、今いう白系ロシア人も入っていたので、新潟や秋田には白人の肌を今も伝える色白な美人も産出するのである。
 治安維持のため江戸期になっても、夷をもって夷を制す、で八つと四つは交互に、互いに監視し牽制しあうように四つの弾左ヱ門家の下に、八つの車善七。その下に四谷者、又その下が谷津もの。とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので共に仲よくしあって、世直しをと煽動された。その結果、幕末からはポルノでもない東海道膝栗毛の貸本に影響されキタの騎馬系の末孫の馬方が、八つの大井川の赤フンの川越人足のために「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と白フン(ふんどし)を振りつつ、向うでは酒手をはずむようにと旅人に馬子唄ですすめもしたものである。
 伊勢神宮北条政子と思いこんでいた大衆へ、お札ふりの「ええじゃないか」の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの裸一貫で馬方や車力人足をしていたのを、一つに結びつけさせての大衆動員の策は討幕の大動力となった。頭の良い人が昔もいたものであると感心させられる。
 己が家系のルーツ調べに学校歴史では納得できず、あれこれ本を読まれる人が多い。
 人情として美化したがるのなら別だが、もし真実をと想うなら道標は八切史観だけだろう。



以上ここのサイトから転載しました。


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