羽鳥高原板小屋遺跡

今日の午後にキノコの出の確認を兼ねて行ってきました。


ここはこういう遺跡なんです↓




僕の住んでる所から車で45分ぐらいの羽鳥高原にあって、羽鳥スキー場に向かっていく道の途中から林道を少し入ったところに車を停めて、遊歩道のような道を下っていくとこのような光景が〜↓






このように急に昔のお墓が見えてきます。


ここは昼間でも周りの木々で薄暗いので、少し怖いかもしれませんね。


この遺跡は最初の2枚の写真を見てもらえば分るように、蒲生氏郷とともに会津入りした近江木地師の集落跡なんだそうです。


僕はこの遺跡の住人たちが隠れキリシタンだったんではと考えてここを訪れてみたわけです。


蒲生氏郷キリシタン大名でしたので、一時会津ではかなり信者が増えたらしいです。


しかし、キリシタン禁制でかなり弾圧されたらしく、信者も減っていって隠れて信仰する人たちも多かったらしいので、もしやこの遺跡にその証拠が無いものかと思い探してみたんですが、見つけることはできませんでした。


近くの南会津地方や他の会津地方ではマリア観音や、十字架を模した墓石等が見つかっているので期待したんですが、僕の知識では見つけ出すことはできませんでした。


ただ、頭が削り取られてる石像もいくつか見られるので、専門家が見れば分るのかもしれませんが、僕の知識ではどうにも〜。




もう1つには、こういう木地師のように山に入って暮らす人たちには、違う役目があったらしいというのをどこかのサイトで読んだことがあったので、その線も捨て切れませんね。


木地師というのは自分が作った椀、盆、皿を町に売りに来て現金収入を得て暮らしていたわけですが、売りに来た町でいろいろな噂や情報を聞き出す役目もあったらしいのです。


この遺跡の住人がそういうことをしていたかは分りませんが、考えられなくも無いですね。


それから、上の写真の解説文に江戸時代の飢饉によって餓死したり離村したりで廃村になったと書かれていますが、僕はここも少し疑っているのです。


昔平地で百姓をしてた人達の中には、飢饉の時に山に入って飢えから命を守った人も多いし、そのまま山で暮らすようになった人達も居るそうなのです。


それだけ山には食べ物があったらしいんですね。


そんなことを読んで知ってたので、その線でも少し調べてみたいと思っています。


どうも与えられる歴史観を疑うようになってしまいました〜^^;;;


そんなこんなを考えながら遺跡を奥に進んで行くと、こんな所に出ます↓





細い道を登りきったところ、平らな広場が広がりました。


たぶん昔の住居跡だと思います。


ここでは、こんなものを見つけました↓





上から山梨、胡桃、栃の実です。


こんな木の実なんかも食べていたんでしょうね。


その他にも栗やユリ、ネマガリダケが採れる熊笹もたくさんありましたし、近くには渓流も流れてるのでイワナやヤマメ、そしてカジカやサンショウウオも食料になったんでしょうね。


今回ここを訪れるていろいろなことが分ったので、もう少し調べてみたいと思いました。


次回ここを訪れるのはキノコが出てからだろうな〜^^